「何もない」

見渡す限り、辺りには何もない。
時折耳に入るのは、船底に打ち付ける波の音と空を飛ぶ海鳥の声。
背後では何やら賑やかな声も聞こえるが、それは彼にとって興味のないこと。

「本当に、何もないな・・・」

船首のその先。
船体から大きく突き出した柱に腰掛けた青年は再度呟く。
もう一度まわりを見るが、乗っている船以外に彼の目には何も映らない。
ただ、目の前に広がるのは真っ青な海。
そして、真っ青な空。

そう、青年は海のど真ん中にいた。



海賊たちの日常




「暇だねぇ、アベル。」

太陽の光をキラキラと照り返す波を見やりながら、ジャンはデッキへと体の向きを変えた。
デッキの中心部。帆船の命ともいえるメインマストを支える、柱の前で作業している仲間へ声をかける。
しかし、名前を呼ばれたアベルは無表情で一瞥をくれただけで、手元へと視線を戻してしまう。
仲間の不機嫌を承知で、ジャンは続けた。

「『暇は人を殺せる』というのは本当かもしれない。そう思わないかい?」

ぴくっとこめかみに青筋を浮かべ、しかし何も無かったかのように装い作業を続けるアベルの姿を確認して、彼は再び口を開く。

「ここまですることがないと、何のために生きているのかわからなくなってしまうよ」
ジャンの言葉に、ぷるぷるとアベルは震えだす。
右手に持っているノコギリの柄を手にめり込むほど握り締めて、それでも必死に理性を保とうとしていることが手にとるようにわかった。
そんなアベルの様子を見てジャンは口元を面白そうに歪め、最後の爆弾を落とした。

「ねぇ、アベル。キミも暇ならこっちに来て一緒にこの暇な時間をいかに有効活用するか考えないかい?」

ブチッ

実際には存在しない堪忍袋の緒が切れる音を、確かにフェイは聞いた。

「やかましい!さっきから黙って聞いていれば『暇だ暇だ』とベラベラベラベラ!!無駄口叩く暇があるならさっさとこっち来て手伝え!」

そんな怒鳴り声と共に、それはジャンに向かって一直線に風を切って飛んでくる。

「危ないな。当たっていたら致命傷だよ」

飛んできたものを難なく受け止め片手で弄びながら、柱に腰掛けていたジャンはデッキに下りてきた。
身に着けているのは質素なシャツだが、身のこなし方からはどこか気品が漂う。
まるで、物語の中の王子が一般人に変装して街に出かけているような。

「当たるように投げたんだ。大人しく刺されろ」

受け止めたのは、さっきまでアベルがギリギリと握り締めていた片刃のノコギリ。
確かに、命中して当たり所が悪ければそのまま海へ墜落していただろう。

「おや、ここで私が命を落としたらこの先誰が迷子になったキミを連れ戻すんだい?アベル。」
「誰も連れ戻してくれなんて頼んでない!!」

アベルは再度怒鳴り、手近なものを怒りにまかせて投げつけ始めた。
どうやら『迷子』という言葉が気に入らなかったらしい。

「おっと」

アベルの足元には工具箱があり、飛んでくるのは釘、鉈、金槌、スパナなど一歩間違えば凶器になりそうなものばかり。
さすがに受け止めきれないと判断したのか、ジャンも今度は受け止めずに避ける。

が。

「人が集中しているときに水を差すなんていい度胸してるわね」

彼の後ろに、スッと音も無く立つ人影。

「サ、サフィ・・・」

真っ直ぐな黒髪を腰まで伸ばし、東洋の民族衣装に身を包んだ女性。
その容姿は道ですれ違う全ての人々が振り返る、美しさ。
細くしなやかな体からすらりと伸びた手足。陶磁のように真っ白な肌と黒漆のように真っ黒な髪との対比が、神秘的な印象を見るものに与えている。
そして、その神秘的な空気を醸し出す彼女は、明らかに怒っていた。
表情こそかわらないが、それが逆に怖い。

「いや、キミの邪魔をするつもりは無かったんだよ」

ジャンも仲間の表情を見て、ダラダラと冷や汗を流しながら機械仕掛けの人形のようにゆっくりと振り向いた。
アベルといえば、針金の束を振りかぶったままの状態でぴしっと石像のように固まっている。

「私が月白の手入れをしているときは大人しくしていろ と何度言ったらわかるのかしら?」

手にしていた真っ白な刀をこれまた真っ白な鞘にしまいながら、その女性、サフィリアは嘆息した。
彼女の足元には先ほどアベルがジャンに向かって投げつけた凶器の数々が転がっている。
全部、ジャンが避けたせいで愛刀の手入れ中だったサフィに向かって飛んで行き、彼女が刀の鞘と柄を使って叩き落としたものだ。

「ぐ・・・まさか、お前がそんなところにいたとは思わなかったんだよ」
「そ、そうだね!すぐ近くにいた僕にさえ気取らせないなんて、さすがサフィ!」
「それで?」

必死の弁明も、サフィの前では意味を成さない。
冷ややかな目で見つめられ、2人は意気消沈する。

「すまん・・・」
「ごめん・・・」

19歳のアベルと23歳のジャン。
ともに、山のように高いプライドを持つ2人に大人しく侘びを入れさせる人物など、世界中を探し回ってもそうたくさんはいない。

「わかればいいわ。そんなところで遊んでないで、日が暮れるまでにはそのマストを直して頂戴。でないと、ユーリが部屋から出てこないわ」

10歳にも満たない子供のように、しゅん となってしまった2人を見て、再び嘆息したサフィはくるりと背を向ける。
そして、もう1本、脇に立てかけてあった真っ黒な刀を手にとると、船室へ降りて行く。ふわり と風になびいた黒髪が一拍遅れて彼女の後を追った。


************